住んでできることと、住まなくてもできること

地域おこし協力隊について考えながら

 地域おこし協力隊とは、地域に住んで、地域の中で活動することで、地域を活性化させていくというのが、その役割であろう。住民票を移すというのは名目ではなく、実際の生活の本拠地を構えること、そこをないがしろにすることはできないだろう。公的資金を使った事業で、法的に定められている居住地に住民票を置くという手続きをないがしろにして、実態なき移住を推進することができないのも明らかであろう。
 一方、住民票を移さない形(生活の本拠地を別の自治体においての)でも、地域活性化への協力、地域への支援なども様々なあり方が想定されうるわけであり、地域おこし協力隊という制度が、現状のような形で存在する限りにおいては、「住む」というのを大前提として考えるべきであろう。

 「住む」ってなんだろう。一時的な居住から、定住、永住、先祖代々住み続ける・・・まで様々な時間の長さが考えられる「住む」という行為というか実態。長く住んでいれば、様々な社会関係の網の目の中に取り込まれている。檀家であったり、神社の氏子であったり、親戚筋やら土地改良区やら自治会の役員やらあれこれあれこれ。短期の居住者には全てを把握するのは難しいあれこれ。
 自分の世代だけでも、幼なじみ・同級生・少年野球の仲間・地区の祭りの仲間、場所によっては神楽仲間だったり、太鼓仲間だったり・・・そういう社会的な関係性は、移り住んできた流れ者には無縁のもの。(結婚して、その地に住み始めた場合には、一気に様々な社会関係の中に放り込まれるのだろうけど)

 地域おこし協力隊が「住む」という行為は、摩擦もあるし、ストレスもあるかもしれないけど、とりあえず、様々な社会的な関係性の中に飛び込むということを前提としていたのではないだろうか。人口が増えました、平均年齢が少し下がりましたなんてことが目的であれば、税金を投入する意味はない。(国税を投入して、人口移動を推進したら、交付税が増えました・・・なんて話は国税の使い方としては最悪であろう)
 もちろん、地域活性化につながる事業は、近隣都市から通勤しても、テレワークでもできることは沢山あるわけで、ここであえて「住む」ということは、「住む」ことから生まれる熱、投入されるエネルギー、それは時に摩擦熱を生むかもしれないけど、その熱が変化への原動力になることを求められているのではないだろうか。

 というところで、この話の先はまた今度考えよう。

 さて、少し話はそれてしまうのだが、「住む」と言えば、地方自治体の職員も近隣の町から通っている人も増えていることだろう。特に合併が進んだ後は、合併後の中心都市で採用されたり、市・町外から採用されたりということも多いだろう。
 しかし、合併前にはやはり地元から採用されている人が多かったのではないか、と思うのだが、どうなのだろうか。出身地とのつながり、それこそ祭りや学校やらの地域の仲間とのつながりが熱いものであったからこそ、地元で就職していたのだろうか?
 合併していなくても、地元出身職員がいなくなってしまう傾向は全国各地であるのだろうか?旧H町では、地元出身職員の存在は災害対応でも、様々な地域行事でも重要な役割を果たしていた。しかし合併していない○村では、そもそも地元出身職員のプレゼンスは極めて弱い。それでも、既に退職した世代は、地域に様々に関わっているから、時代の変化なのだろうか。
 何にしても「住んでいない」職員が増えたら、果たして小規模自治体の存在価値は残るのだろうか?地域に密着もしていない、顔も見えない行政にメリットが残るのか?でも、きっとこれが残るのだ。一定額の交付金が入ってきて、それを淡々と配分している限りは安泰なのだ。域内の事業所が存続する限り配分し続ければいい。そういうことなのかな。