ナイン・ストーリーズの「バナナフィッシュ日和」を読んだ後、少しサリンジャーを読む気になるだろうかと思い、文庫本の「大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア序章」をまたまたブックオフで買ってみた。本棚のどこかを探してみるべきだというのに・・・
シーモアの結婚式に向かい、それがキャンセルされ、次の移動のために同じタクシーに乗り合わせた人々で会話が始まり、その車が足止めをくらって、ちょうど近所にあったグラース家のアパートに立ち寄って、次の話が展開していく。
辛辣な声に晒されながらも、生きる意味をというか、人生の本質を見極めていたシーモアということになるのだろうか。最初の伯楽のたとえを踏まえるならば。
しかしなぜ、サリンジャーは、早熟で「天才」と言われるような、きっと小説の主人公としてはあまり好かれることはないであろう人物を描いたのだろうか。(少なくとも私は、そういう主人公の小説を面白いとは思わない)
不完全な人と、不確定な時間の流れの中で物語は生まれ、育っていくのではないか?作者は全てを綿密に積み上げて物語を構築していくとしても・・・
サリンジャーは、海外小説の入った一箱が、どこかの隅から発掘されるまではお休みかな。(2025/02/12)
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