ここのところ、米俵を作る手順の動画編集に集中していた。米俵一つ作るのも大変な作業で、もう少し楽な保存・運搬方法はなかったのだろうかと思う。
さて、米俵についてあれこれ調べ始めたのではあるが、根拠のないことを思いつきで書き連ねてもしょうがないので、インターネットで出会った情報からいくつか検討していこうと思う。
<俵の利用時期>
俵の使用開始時期について、とりあえず画像でみていくと、江戸時代には浮世絵などで米俵が描かれており、そんな感じで調べてみると平安時代後期と言われる「信貴山縁起絵巻」にも俵が出てくるので、とりあえず、昭和の俵と似たような俵がまあ少なくとも900年間は使われていたということで・・・
その前の時代に使われていても、どのようなものかわからないと同じように語っていいのかわからないし。
で、ここではとりあえず俵の利用が終わる時期に向けての情報を整理してみたい。
―北海道― 農産物の包装の変遷
機関誌 郷土をさぐる(第18号)編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会
https://www.town.kamifurano.hokkaido.jp/hp/saguru/1807omori.htm
北の上富良野町から俵に関連する情報が出てくるとは思っていなかったけれども、遠隔地で、「輸送」ということが重要な課題であったからなのだろうと思う。(この資料の内容は、北海道全般に関する記述であろうと推測する)
(斜字体が資料からの抜粋)
1)昭和二十年代までは単俵(実子縄(みごなわ)二本で編む)で全量に使用されていた。
2)昭和二十年に複式俵(実子縄三本で編む)が正式に米麦包装用に規定された。三十年代には全量複式俵に普及された。
3)当時俵編に従事するのは専ら農家の主婦で、その苦労も大変なものであった。
今回、動画で紹介しているのは縄三本を使っているので、「複式俵」という方法なのだと思うが、上記郷土誌のサイトでは絵・イラストなどが割愛されているので、詳細は確認できない。
いずれにせよ、昭和30年代まで、米の運搬は「俵」が中心であった。
4)雑穀用俵は北海道特有の「えん麦稈」で製作されたものであった。
5)馬鈴薯用俵の包装として古俵が利用され、昭和三十年代では年間二五〇万枚程度で、内、約百二十方枚程度は各県より移入されていた。
消費地に運ばれる大量の俵が毎回廃棄されているのだろうか、と気になっていたが、古俵は包装用に再流通していたことがわかる。
6)米麦用叺(かます): 昭和三十年代で年間四〇〇万枚程度使用され、主として三重県、富山県、福井県より移入されていた。雑穀用叺:昭和三十年代で年間四十五万枚程度が青森県より移入、菜種、あま種用としては四十万枚程度移入されていた。
この叺は、新規に作られたのか、俵の使い回しなのか?どちらだろう。数量に関しては、記事のタイトルから考えて、「北海道に」ということなのだろうと想像するが、確かではない。
7)麻袋:黄麻の繊維より製作したもので、輸入食糧から発生した故麻袋が滞貨したことから昭和二十八年に小麦の包装に、三十七年には軟質米「北海道産」にも使用が認められ、四十一年産米から麻袋の使用が急速に増加された。包装別の比率では麻袋八〇・九%、叺一九・〇%、複式俵〇・一%で麻袋が主包装となった。
8)樹脂袋:昭和四十三年産米の包装に、更に五十年には麦についても樹脂袋、化繊袋の使用が認められたが、取扱い、保管上の問題等で普及は遅延したが現在も使用されている。
昭和40年代に入って、やっと俵から麻袋に切り替わったということになる。なぜ、こんなにも俵の時代は長く続いたのだろうか。
他の情報についても見てみると
「物流博物館」(こんなのがあったとは知らなかった。今度行ってみないと)の「米俵を貨車に積み込む」という1960年頃の映像に加えて、「1970年代に入ってまもなく俵は姿を消し、麻袋、紙袋、樹脂袋などに交代しました。」と記されている。 https://images.app.goo.gl/ekTdmLJV37kC745t9
麻袋への交替については、次のような文献もある「国産米用麻袋について」増田俊明 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsta1957/6/3/6_3_125/_pdf
1957年の文献のようであるが、このころやっと国産米流通での使用に耐える麻袋が開発されたのだと理解できる。
…頃から使われてきた米俵は、戦後から昭和30年代まで「複式俵」というような改善が進められ、そして昭和40年代に終わりを迎えた。主要農作物である「米」の輸送が、手作りの俵に依存していた、依存できていたことが不思議でならない。
イギリスは、植民地からの様々な産品の輸送のために、その100年以上前から、インド(及び現バングラデシュ)でのジュート産業・製麻工業を進めてきた。
米が世界市場とは切り離されていたからか、そもそも国内に植民地的な労働市場を抱えていたからか・・・俵は長い年月生き延びた。

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