あれこれ「ほんにょ」を立てる動画などを作ってきましたが、そのついでにちょっと「ほんにょ」について調べてみました。
2024年10月31日
2024年時点ではまだ目にすることができる岩手県南部での稲の干し方である「ほんにょ」とは一体何なのだろうか。横木に稲を干していく「はさがけ」(「はざかけ」)と、杭に干す「くいがけ」の分布はどうなっているのだろうか。そうした様々な疑問が生じてくるので、インターネットで入手できる情報を元に調べてみた。
1. 稲の乾燥方法
「ほんにょ」という聞き覚えのない、珍しい音を耳にして、地域に独特の「伝統的」なものを想像してしまうのだが、それは本当に正しいのだろうか。その点について検討するため、まず現在のライスセンターや個別の乾燥機よりも前の時代の稲の乾燥方法について調べてみる。
「わが国における稲慣行乾燥方式について」(1)によると、慣行的な乾燥方法として、杭干や架干しが古くからおこなわれていたわけではないことが記されている。そもそも、こうした乾燥方法は、収穫方法が穂首刈ではなく、株刈になって以降の干し方の話であることに改めて気づかされる。
その上で、地面上で乾燥させる地干、積み上げていく積干、杭を使う杭干、稲架に干していく架干の4つの方式が示されている。その上で、架干は近世以降に多様化したものと想定されている。
(1)「わが国における稲慣行乾燥方式について」 稲野藤一郎
農作業研究 (Japanese Journal of Farm Work Research) 24(2): 156-160, 1989
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsfwr1966/24/2/24_2_156/_pdf/-char/ja
2. 稲架の普及時期と全国的な分布
「稲架の分布とその意義」(2)では、稲架の分布様式と伝播方法について検討している。この文献によると、「…時期は明瞭でないが,平安朝の初期承和8年(841)に大和国宇陀郡の一百姓が、田の中に木架を構えて刈稲を架干にし、それを稲機と称していた。…同年9月には太政官符を発して、便利である稲機を諸国に奨励している。前述したように根刈の段階は平安朝時代と推定されているので、稲機がほぼ同じ時期に出現することは当然の成行といえよう。」としている。
また「元禄頃からの商品経済の画期的な発展が、農業技術の発達の上にも影響して稲扱千歯が急に普及してくるが、その18世紀半ば頃に稲架も急速に普及したと思われる。その理由は千歯扱は稲穂の乾燥度を強く要求するからである。」とも記されている。
一方で「明治14年の農談会においても全国各地の経験豊富な老農が、地干より稲架の優ることを主張したのである」とのことであり、明治以降においても、普及が進められていた技術であることがわかる。九州においてはこの文献の執筆時期においても、「九州では新しい風習である稲架と古い稲積とが混在していて興味深い」とされているし、東北の杭干しについては「東北地方には段架と平架の他に新しく発明された杭干(一本杭)がある。杭干とは2m余の棒を真直ぐに立て、これを中心に紡錘形に稲束を掛ける。これは東北でも特に酒田・鶴岡の庄内平野や山形・新庄の盆地等に典型的に分布する。この杭干は簡便な方法であるから、東北地方でも山形県北部・秋田・青森・岩手県西部・福島県・新潟県岩船郡に漸次普及しつつある。」としており、東北でも杭干しは昭和に入って広がりつつある技術であると考えられている。
またこの文献では、杭干し、地干し等の分布や名称の分布(ハゼ・ハザ等)についても記されている。
(2)「稲架の分布とその意義」、 西村嘉助・牧野洋一 人文地理 1959 年 11 巻 4 号
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg1948/11/4/11_4_293/_pdf/-char/ja
3. 東北地方における水稲乾燥方法
次に、東北地方における水稲乾燥方法について、50年ほど前の文献などをもとに概観してみたい。
まず、青森・秋田については(3.1)地干しといえる、束立て、島だて、竹かげの3種類が報告され、それらに続いて、棒がけ(くいがけ、ぼうがけ、ほんにぉ、ほによ)、架がけ、三角におが紹介されている。ここにおいて「ほんにぉ」、「ほによ」という名称が出てくることに加え、「三角にお」(下線は筆者)という積干しの形態が紹介されている。また「にお」には乳穂の字を当てていると記されている。
しかしながら、青森・秋田のどの地域で「ほんにぉ」あるいは「ほによ」という名称が利用されていたのかはわからない。
岩手県についての報告(3.2)によると、乾燥方法は地干しのみが5%、掛け干しのみが5%、残り90%は地干ししてからの掛け干しとなっている。掛け干しの方法については、55%が架干し、36%が棒掛け、9%が積み干しの「にお」となっている。また乾燥方法の地理的な分布も図説されており、棒掛けは県南・西部地方に集中している。
「中には1本の棒が15尺 (4.5m) 余もあって、1本当り1俵分を標準に200把内外をかけて, 反当4~5本1カ所に集めて立てる棒掛けもあり、ホニヨと呼ぶ。豊作の年も反当本数をあまり変えずに1本当り1俵半もかけ、このような年は丸ホニヨと呼ぶ。(岩手郡雫石町西山附近)」という記述もみられる。
名称の地域的な分布については、棒掛けについては「ほによう (笹間、御神明)、いなくい (黒沢尻、二子)、 ぼうぐい(黒沢尻)、ほによ (北上市平沢、江刺市玉里、稲瀬)、ぼうばせ (一戸町、玉山、好摩)、くい (玉里、稲瀬)、ほんにょ (平泉町、一の関市中里)、ほんにょう(花泉町、永井)、ほぎょう (花泉町、油島)とされている。
鳰(注:「にお」のことか)については「みよ (岩手町一方井、御堂)、におづみ (西根町)、いなによ (安代町打田内)、によ (安代町、 一戸町、玉山村、好摩)」が紹介されている。
山形県について、山形アグリネットの記事(2022年2月16日)は次のように記している。(3.3)
『「ハセがけ」「くいがけ」をする方法は昔からあったのではありません。昔は、稲をかりとってから1週間くらい稲たばのまま、いなほを下にして田んぼに立てて干していました。その後3~4日間いなほを上に向けて干して、乾いたものから順々に取り入れていくやり方でした。これは、水はけの悪い田んぼや、雨が続いたときにはモミから芽が出て米の品質を落としていました。
続いて登場したのが、田んぼと田んぼの境界の盛り上がった所(=「アゼ」といいます)にいなほを下にして稲たばを立てて、4~5日たってワラが乾いたころに、くいに1週間くらいかけるというやり方でした。庄内平野では、わりと古くからこの方法がおこなわれていました。
かってからすぐに「くい」にかける「くいがけ」のやり方は、庄内地方の中のわりと山の方では明治維新前からおこなわれ、平野部では明治14~15年ごろから始まりました。明治40年ごろからふつうの乾燥法として山形県以外にも広まりました。』
宮城県について、インターネットの情報から次のような記述を紹介する。(3.4)
このサイトでは宮城県内いくつかの地域が紹介されている。
<迫町>
「ボウガケ 昭和のはじめに、村役場より稲の乾燥について指導が行われ、杭を使ったボウガケを行うようになりました。昔よりこの地域は、地干しが主でしたが、地干しでは米の乾燥が十分ではなく、保存がきかず腐るので、再三に渡り県が主体となって稲架掛け(はさかけ)の指導が行われました。…
…昭和のはじめまでは、ソラタテという地干しが行われていました。刈り取った稲は、原っぱや空き地に干しました。」
<南郷町>
「南郷町においては、古くより地干しが行われていました。ソラタテのことですが、ここではボッチダテと呼ばれています…
…クイガケ 古く明治・大正の頃から、クイを使った稲の干し方がありました。おもに地干しできなかった分とか、湿田のためクロに地干しできない場合に用いられました。クイのかわりに長さ七尺ほどのカラダケを用いた場合もありました。クイガケされたイネは、ホニオと言いました。」
「ほんにょ」という聞きなれない、「エキゾチックな」名称から、「伝統的」なものを想像してしまうが、「ほんにょ」という杭掛け、杭干しの手法は、それほど古くからおこなわれてきたわけではないということがこれらの資料から明らかになる。
また今回は触れてはいないが、「棒杭」の入手可能性についても検討が必要かと思われる。間伐材を利用した杭が安価に利用できる状況が存在することも杭干しの普及には必要だったのではないかだろうか。
(3.1)「青森・秋田両県における水稲慣行 収穫法の地域性とその成立要因に関する研究」
第1報 刈取りと乾燥、森敏夫・村山成治、農作業研究1974 巻 (1974) 20 号
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsfwr1966/1974/20/1974_20_14/_pdf/-char/ja
(3.2)「岩手県における水稲慣行収穫法の地域性とその成立要因に関する研究」
第1報 刈取乾燥法の実態と分布、平野輝雄・岩根和夫・米山陽太郎・阿部吉雄・八橋米太郎、農作業研究 1974 (20), 22-32, 1974
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsfwr1966/1974/20/1974_20_22/_pdf/-char/ja
(3.3)山形アグリネット
https://agrin.jp/crop/suito/q_and_a/hosikata.html
(3.4)「稲架掛け(はさかけ)にみる農村の生活」
http://www.dab.hi-ho.ne.jp/h-hio/
4 「ほんにょ」の名称について
ここまでのところで、稲架や棒にかける掛け干しというのが、明治~昭和にかけても新しい技術として普及してきた乾燥方法であること、それ以前には地干しが広範に行われていたことなどがわかってきた。
次に「ほんにょ」における「にょ」という音と積み干しの一種である「にお」に関連があるのではないかという仮説をたてられるのではないかと思い、更に資料を探ってみる。
「稲積み慣行の成立と存在意義」(南根祐)(4)では、「刈取った稲穂,または脱穀後の稲藁を円形や円錐形に積み上げたもの」を意味するとされる「にお」という名称についての議論を紹介するとともに、韓国・日本の稲積み慣行について比較検討を行っている。
この中で「ニオ(ホ)」系の名称として、ニオ(山形など)、ボニオ(秋田)穂ニオ(秋田)、ホンニオ(岩手・和賀郡)、ホンニョウ(宮城県)などを例示している。「ほんにょ」という名称も、稲穂あるいは稲藁を積み上げたものを指し示す「ニオ」系の名称の一つと考えられるであろう。
またこの論文の中で引用されている福島県会津地方の「ホンニ」の記述に興味深いところがあるので、そのまま転載してみたい。(原典は民間伝承 11(4/5),1947 掲載の山口弥一郎,「ニュウ積み」と思われる。)
「田圃に稲の束立テのを集めてとるのはホンニと言つて,穂を内側にして右廻りに一把づ々重ねてゆく。こうして稲のモトの部分の乾燥した四,五日乃至,六,七日位に稲アゲをやるのであるが,ホンニトリは天気のよい夕方が多く星月夜を,子供達まで総動員して,如何にも秋の忙しさにふさはしいやうにせっせと励んでやる。十二三年この方,この地方にも棒立テがはいつてきて,現在は村の七分通りが棒ダテのホンニになつている。この稲を屋敷にもつて来て外に積む場合もある。これはイナニュウと言ひホンニとは言はない。穂を内側にして圓形か,或は穂を向ひあはせに方形の舟形に積むが,これも単にイナニュウと呼ぶ。然し近年は機械ゴキになつてから多くは小屋等に積み,一方からコクから,餘りイナニュウも見られなくなった。会津盆地だけでも束ダテの方法も種々あり,ホンニにとらずにサデカケの所もあり,又まだ棒ダテの方法が普及していない地方もある。然しホンニ,稲ニュウ,藁ニュウの名称以外は餘りきかない。」
この記述をもとに考えると、積干しの「ホンニ」から(ここ12、3年で=1930年代に入ってから)棒ダテの「ホンニ」に移行してきたのが会津での状況のようである。
(4)「稲積み慣行の成立と存在意義」、南根祐、『比較民俗研究』2 1990/9
https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/4353/files/3.pdf
5 まとめ
岩手県南部において「ほんにょ」と呼ばれる杭を利用して稲を干す方法は、昭和に入ってから普及した地域もあるような技術であることがわかった。岩手県南部において、いつ頃から広がったのかを明確にするためには、この周辺の地域史、過去の写真、聞き取りなどを通じて、あらためて調べていく必要がある。
今回の、インターネット情報を用いた検討の結果としては『積干しの「ホンニ」から棒ダテの「ホンニ」に移行してきた』会津の事例との類似のプロセスを想定することができるのではないかと考えている。
一方で、「ほんにょ」という言葉については、杭干し以前からの積干し、あるいは穂刈していた時代の、稲穂あるいは稲藁を積み上げたものを指し示す「ニオ」との関連が検討される必要があるだろう。(終)
